続・ARASHI TIME

二宮さん・大宮溺愛の出戻りOL。思ったことを思ったときに徒然書いています。

『身体的物語論』に見つける役者・二宮和也

JALの新CM、破壊力が凄まじかったですね。さすが魅せ方を分かってる。カメラ目線はファン殺しだった。鬼畜の所業(歓喜

 

こんばんは、ニナです。

 

表題の作品は、蜷川幸雄さんの生前のインタビューや演劇論をまとめた書籍で、フォロワーさんから教えてもらいました。(Special thanks あきちゃん)

 

 

身体的物語論

身体的物語論

 

 

演劇がお好きな方は二宮さんとか関係なく、非常に楽しく読み進めていただけると思います。結論から言うと、直接的に二宮さんに言及する箇所はありません。名前が参照されるくらい。しかし、蜷川さんが生前大切にされてきた演劇論は確実に二宮さんの中に生きていて、「ああ、これか。あの人が言っていたのは、」という発見が詰まっています。

 

蜷川さんと二宮和也と言えば、私の中では永遠に『青の炎』(2003年公開)です。初めて観た時、私はまだ小学生で、小学生にはなかなかショッキングな内容にも関わらず、色々と感じ考え、今もその時の感覚を鮮明に覚えています。

 

せっかくの機会なので、二宮和也の中に生き続ける蜷川イズムみたいなものを、素人目ですが考察してみたいと思います。前述の作品と、CUT 2018年6月号を主に参照します。途中、『青の炎』や私の昔話を挟みながら自由気ままに書きしたためるので、自己責任でお読みください(笑)

 

 

Cut 2018年 06 月号 [雑誌]

Cut 2018年 06 月号 [雑誌]

 

 

 

では。(長いよ!!!!!)

 

 

 

 

 

蜷川氏との、そして二宮和也との最初の接点は言うまでもなく『青の炎』でした。あれは地上波で放送された小学校4年生の頃だったと思います。(年齢バレルヨ)

 

父親とテレビで観ていた私。ところどころ目を耳を覆いたくなるようなシーン。今考えると酷く若々しく初々しい、柔な二宮和也と青のコントラスト。水槽のシーンが大好きです。水槽を使った表現は、蜷川氏の好きな演出だったそうですね。全部に釘付けで、全部が新鮮で鮮明でした。

 

この頃の私は翼に夢中で。夜もヒッパレで壁を蹴ってバク宙した翼にノックアウトされていました、懐かしい(笑)私が嵐ファンになるのはそこから数年後でしたが、今でもなお私の中の二宮和也の印象は櫛森秀一です。

 

今以上に儚くて、脆くて、触れたら壊れてしまいそうな出で立ちと、演技。思春期で様々なことに悩む高校生の雰囲気がよく表れています。ここで二宮さんが演じていた櫛森秀一は、家族の仇討ちというよりかは、自分の世界を守るための防衛行動だったように思います。それでも、現在の俳優・二宮和也にオファーが来る役どころは復讐者が多いような気がする。

 

多分それは、櫛森秀一でも表れていたように、儚さの中に抱えた爆発的な熱量や狂気が(CUTでは「愛情と暴力性の揺らぎ」って言われていましたね)、ある意味で二宮さんのイメージを形作ったからなのではないかな。

 

そんな櫛森秀一ですが、二宮さん自身は「もう出来ない」と言います。これ、面白かったしなるほどなって思った。

 

先日発売されたCUT2018年6月号で、彼は次のように言及していました。

 

「(中略)揺らぎというか青さというか、芝居をしているのかしていないのか、しようとしているけどできないのか、あの年代だからこそ成立しているいろんなものがやっぱりあったから。物理的なものももちろんそうだけど、そうじゃない部分でも、あの頃だからこそ持っていたものってもう全部ないから(笑)」 

p.14 下段中央 

 

(二宮自身のリアルなものとして蜷川氏が撮ったかどうかについて)

「あると思います。だから俺も、もうできないっていうんだと思うし。あの年齢じゃないとああいう芝居は出ないっていうのもあるし、あのあと何十年も芝居をやってきた今ではできないことのような気がします。」

p.16 上段冒頭 

 

24歳同時に高校生役(『山田太郎ものがたり』)を演っていながら何を今更、と思ったものの、確かにあの初々しさや若さ故の熱量は、今の二宮和也では表現できないんだ。それは経験則でカバーできるものではなく、あの時あの瞬間だったから成立した世界、演技だったから。そして何より、身体的な特徴。これがもう絶対に再現ができなくて、だからこそ蜷川氏が目をつけた宝物みたいなもの。

 

『身体的物語論』で語られていることの主題は、端的に言えば「演技力だけでは表現できない、俳優が生きた時代や思想等を生々しく表現するのは、その俳優自身の出で立ちである」ということだと思いました。

 

老人役を若者が演じること、またその逆も然りですが、そうしたって別にいいのです。それもまた演技なのですから。しかし、リアルな身体的特徴が伴わないと、表現できないものがある。何故なら、身体的特徴は生きた時代を反映しており、時代ごとにそれは変わるからだと言います。

 

ここ数年は「草食系男子」などと言って、身体的特徴を揶揄されるようになって久しくありません。それを蜷川氏は「時代」だと言います。若者の身体的特徴は、彼らが生きている「時代」を体現しているんだそうです。

 

 

 七十年代はみんな違う顔と身体をもっていました。(中略)七十年代の身体は皮膚感覚がデコボコ、ザラザラしていた。現実と自分の身体が触れ合うとやすりにかかったように血だらけになる。そんな皮膚感覚がありました。p.17~18

 

  

 主に三十歳以下の人たちの姿形や皮膚感はみんな似ていますね。一様にヒョロッとやせていて、重心が高く、肌質がツルツルしていて表情が単調。それから声が小さい。p.15 

 

蜷川氏が若者だった時代の身体的特徴と、現代の身体的特徴です。肌の質感を引き合いに出す感性が非常に興味深い。様々な個性がぶつかった時代は、ぶつかり合う個性が摩擦となり鑢となり、肌がザラザラとしていくんだと。逆に今の若者の肌がツルツルなのは、そういった摩擦が存在しないということ。なるほど、と目から鱗でした。

 

(八十年代以降の)世代はツルツルしていて危険度が少ない。(中略)今の若者は、敵を作らない身体になっているんじゃないかと思うんですよ。原始的に抵抗感やささくれたものが身体に宿っている若者にぼくは最近出会っていません。p.19 

 

抑圧がない時代、主張がない時代、反発がない時代、もしくはこれらの存在に気付かない時代。それらを反映した今の若者たちの身体は、皆目指すところは同じ。下半身は細く細く、上半身は強く強く。重心が高いとはこういうことを指すのでしょう。ツルツルしていて、歪みがない。蜷川氏は歪みを「今の世の中を認めたくないと思っている身体はどこかに歪みが出てくるもの」としていますので、ツルツルでいるということは、「世の中に対しての反発」だったり「自身の主張」みたいなものがあまりない時代だと暗に言っているのかもしれない。(蜷川氏は一方で「時代によって生活者たちの精神の歪みがどこに表れてくるか興味がある」と言っているので、もしかしたら「ツルツルであること」も歪みの一つとも言えるのでは。)

 

趣旨とは離れるかもしれませんが、確かに身体的特徴が特徴にならない世代というか、テンプレではない体型は悪とされている風潮は否めません。

 

逆に言えば、こういった身体的特徴でしか表せないこともあるということです。もっと言うと、違う時代を生きた俳優同士をぶつけることで生まれる化学反応、発見があるとも言えます。

 

これ以降、身体的特徴に見出した蜷川氏の演劇論を、僭越ながら"蜷川イズム"と呼ばせていただきます。

 

こんな風に、役者そのものを大切にして、役者の質感までも演出の一部として考えていた蜷川氏だからこそ、『青の炎』では二宮和也のその瞬間に目をつけたんじゃなかろうか。先述したような、若いからこそ成し得た存在感や熱量が『青の炎』の世界観と合致した。

 

驚くべきことは、『青の炎』の脚本が、蜷川氏の元で舞台俳優をされていた、宮脇卓也氏が手掛けたということ。(周知の事実だったらごめんなさいね)どんな因果なんでしょう。蜷川氏の元で、蜷川イズムを身を以て学んだ舞台俳優による脚本で、二宮和也は櫛森秀一に抜擢され演じ切った。濃い。蜷川イズムの濃度が濃い。

 

常々、二宮さんは聡い方だと思っています。機微なことも見逃さず、しっかりとキャッチする。監督や演出家や脚本家が何を表現したいのかを感じ取り、その先を行くような話はよく聞きます。(まさに今、主演を務めているブラックペアンの裏話は、そんな話ばかり!)そんな役者がその濃度に居合わせたら、言わずもがなですよね。なんという納得感。

 

蜷川イズムについて、蜷川氏が二宮さんに伝えているかどうかは知りません。自身の演劇論として、話しているということはあるかもしれません。ただ言えることは、弱冠20歳の時に肌で感じ学んだ蜷川イズムは、今も俳優・二宮和也の中に渦巻いており、それが二宮さんの演技観に多少なりとも影響を及ぼしているだろうということ。"だろう"と濁したのは、蜷川氏に教わらずとも二宮さんなら肌で感じ取ってしまいそうだなぁと思ったからです。

 

ちなみに、ここまで読んでいただいた方は「こいつ結構こじつけて話してないか?」とお気付きかと思います。いえす、トリック☆(黙れ)

 

すみません、ふざけました。あくまで蜷川氏が論じている『身体的物語論』は先述の通り、「生きた時代が身体的特徴として表れる」ということが演劇の世界でどのような影響を及ぼすかということを論じています。それと同時に、俳優が生きていくということは、過ごしていく時代が変わっていくということ。つまり、時代が移り変わっていくことによって身体的特徴ももちろん変化していくわけで、その瞬間瞬間で身体的特徴が表現できることも変化していくことにも言及しているのではないか、と私は思います。

 

現に、蜷川氏は若者の身体的特徴のみならず、老人たちに対しても、己の身体的特徴を磨いて欲しいと言及しています。

 

 

老いは枯れていくってことじゃない。老いは絢爛たるあだ花を咲かせていく可能性も秘めています。p.26

 

経験を積んで表現できるようになることもある一方で、「今」だからこそリアルに表現できることもある。この感覚が、CUTで二宮さんが言及していたことなんだと思います。

 

今回はあくまでも、二宮さんの中で生き続けているであろう蜷川イズムだけを取り上げています。『身体的物語論』の後半は、蜷川氏が今まで手掛けた演劇それぞれについて、何を考え何を想いキャスティングしたかなどを詳しく載せています。ですので、ここで勝手に考察した内容が全てであるとは絶対に思わないでいただきたい!そんなことは絶対ないと思うのですが!(笑)

 

まして、ただのアイドルファンの演劇に疎い人間の戯言ですので、本当に演劇が好きな方や蜷川氏を敬愛されていらっしゃる方、どうか大目に見てやってください…

 

最後に。今回ご縁があって『身体的物語論』を読みましたが、読んだからこそ改めて、蜷川演劇をこの目で生で拝むことができなかったことは、一生悔やまれるなと思います。しかし一方で、これだけ圧倒された演劇論が自担の中で生き続けていると思うと、もの凄く尊い瞬間を見届けられたのだなと思うのです。謎に誇らしい。

 

ここまで長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

お粗末!