続・ARASHI TIME

二宮さん・大宮溺愛の出戻りOL。思ったことを思ったときに徒然書いています。

振り返ってみた!嵐と私の平成史

どーも、ニナです。

 

前回のブログが平成最後の予定だったのですが、出来心でこんな雑事をまとめてみようと思います。

 

晦日でも年が明けるわけでもなんでもないのに、あえて特別感を出したかったわけでもないのに、やっぱり「平成最後」というのは出来事として大きな気がして書き留めておきたくなりました。

 

と、言いますのも(翔くんみたいw)、この頃ブログやらTwitterやらで「スウェーデン時代から見てました!」とお声掛けいただくことが増えていて(本当に有難い)、いつどこで誰に見てもらっているかは分からないものだな〜と思ったのです。

『ネットタトゥー』なんて言葉もありますが、少なからず今こうして綴ることが、いつか誰かとのご縁になるのであれば、それはとっても浪漫があると思うのです。

 

さて、そんなわけなので、GW10連休の数時間を存分に使い、身バレ覚悟で私と嵐が関わった時間を年表風にまとめてみたいと思います。決して暇じゃない、決して、、、

ファンになったと自覚した時間だけではなく、嵐を初めて認識した時から遡って書き記します。

超絶自己満で長くなると思われるので、足を運んでくださった方々はくれぐれも自己責任でお願いします(笑)

 

いざ!(本当に長いよ!)

 

 

そもそも私の平成は20年強。

そのうち嵐と紡いだ歴史は11年くらい。

意外と長い時間を過ごしていたのだなぁ、と改めて感じます。

 

2003年: よいこの味方

忘れもしない、私が初めて翔くんを知った年。

当時小学校高学年。我が家のルールで、平日は21時就寝のため21時以降のドラマを見ることはできなかったのですが、次の日が休みであれば夜更かしができたのです。そんな私にとって土9は存分にドラマを楽しめる夜!テレビにかぶりついて見てました。

たいよう先生、大好きだったな〜〜。今思い返すと、拙い演技の翔くんはどこまでも可愛らしい。

この時は全然嵐なんて知らなくて、「たいよう先生」って認識しかしてませんでした。

(※余談ですが、この当時は翼が大好きでした!翼と結婚したいと思ってました。本当にかっこよかったな、翼!!!)

 

200?年: 青の炎

……………さて、私の記憶ですと2004年くらいにテレビで父と見ていた記憶なのですが、そもそも2003年公開の映画を翌年に地上波で放送するのか?DVDが出ていたとして、父がそれを借りてきたのか?この辺の記憶が全くありません。(そもそも、地上波だとかDVDだとかっていう知識がなかったので、また経緯が謎w)

とにかくまだ幼かった私が父と見ていたことだけは確かで、内容的にも当時の私にはショッキングであり、時折目や耳を覆いながら「ナニカイケナイモノヲミテイル!!!!」という気持ちで見てました(爆)

櫛森父に襲われる櫛森母のシーンとか、鶏肉で実験するシーンとか、櫛森父を感電死させるシーンとか、少し官能的な出来事に背徳感と罪悪感を感じていた少女だったので(今は影も形もなし)、すごく鮮明に覚えています。

この時の印象が強くて、暫く二宮さんのことを儚くて暗い少年と思っていました。闇を抱えている男性が好きになる要因になったとしか考えられない(笑)

 

2005年①: サクラ咲ケ@Mステ

テレ朝のエントランスホールで歌われた回。この時のサクラ咲ケはやけに鮮明に覚えています。なんでだろう、、、、自分でも不思議なくらい(笑)

物心ついてから初めて嵐を認識した時です。ここで櫛森くんが二宮和也って言うんだ〜、とか、たいよう先生って翔くんなんだ〜、とか、紐付いたんじゃないかな。

 

2005年②: 潤くんとの攻防

2005年はとっても思い出深い年でして、『アンチ松潤』と『でも道明寺はかっこいい』の狭間で揺れていた時代です(ひどい)

ちょうど中学生で、ザ・思春期真っ只中の私はとにかく他人と同じことをしたくなくて(厨二病)、明らかに顔がよくてキラキラしたどうしたってカッコいい人たちを好きになることを許せなかったんですね〜〜!!!!今思い返してもひどい!!!!黒歴史!!!!ヒュウ!!!!

(その割に初恋は中居くん、そのあと翼にゾッコン、2007年には斗真に恋に落ちた私は、根っからのジャニーズ顔に弱いことを痛いほど知ることになります。)

 

 

「マツジュン?キラーイ。俺様で、なんかスカしてていけ好かないもん(どや」

 

 

『みんなが好きになるような男には靡かないわよ』

って何様なんだどこ目線なんだ、な事案。今だからこそ笑い話にできるけど、本当にごめんよ当時の潤くん(土下座)

本当は大好きだったんですよ。道明寺が本当に好きで。でも『アンチ松潤』を公言していたので今更好きなんて言えず、『花沢類派』に所属してました。本当に憐れな奴、、、、、ww

 

2006 - 2007年: 嵐を認識し始める

花男によって嵐を認識した私は、この時期くらいから嵐の楽曲も認識するようになります。

まごまご嵐を見たり、メンバーのドラマを見ていたのもこの頃。とはいえ一視聴者だったのでそんなに思い入れもなく。

バンビ〜ノ!で潤くんのイメージが変わったことはめちゃくちゃ覚えてる!!この辺りから『アンチ松潤』及び『アンチジャニーズ』を公言していたことを詫びて、心を改めました(土下座)

この辺りから、「顔がいい男にはめっぽう弱い」自分を認識するようになりました。自覚できてよかったな!!!!

 

2008年: 08ARASICK再発

「再発」というか「初診」ですね。

ここから私の嵐人生がようやく幕を明けます。

父の転勤の都合で未知の世界「スウェーデン」に辿り着いた私は、日本人の同級生に出会います。これが全ての始まり。

当時のスウェーデンには、特に私が住んでいた地域には日本人はさほど多く住んでおらず、同性の同級生がいたことは奇跡に近かったのです。それは彼女にとっても同様であり、またそのような環境だったからこそ、彼女は一緒に嵐を応援できる『同志』を探しておりました。

 

 

まんまと『同志』として選ばれたわけです。

 

 

これまでに記した通り、私の嵐に関する認識は決して濃いわけではなく、花男の人とかやまたろの人がいるジャニーズのグループくらいでした。そんな人間があっさりとアイドルにハマるとは思えないのですが、何があったんだろう??と改めて推測してみました。

思い当たるのはこんな感じ。

 

  • 元々ミーハー心が強い
  • 顔のいい男の人が好き
  • オタク気質でハマりやすい(ハロプロ追っかけてた)
  • メガネ男子大好き
  • スウェーデンはやる事がとにかくない

 

これはアッサリ堕ちますね!チョロオタすぎる!

ちなみに、Timeの虹が『メガネ男子大好き』に見事クリーンヒットし、二宮さんの掌でゴロンゴロン転がされる日々が始まりました。

 

2009年①: あの手この手でFC入会

嵐の沼にもどっぷり浸かった頃、どうやらファンクラブというものがあるらしいことを知ります。しかしながら海外から(海外の住所)の入会は不可、さてどうしたものか、、、と考えて辿り着いた答えが、これ。

 

 

そうだ!おじいちゃんに頼もう!!(爆)

 

 

時は2009年、まだまだネットの発展も間もない頃。遠距離でのやり取りは至難の技。ましてやお相手はオタク活動に疎いおじいちゃん・おばあちゃん。FC入会も郵便局の振込用紙でやっていたような時代ですよ?

祖父母とメールでのやり取りはできませんでしたので、叔父夫婦に用件をメールで送り、それを祖父母に伝えてもらい、なんとか入会、、、、、よくまぁ遠隔で入会しようと思ったもんだ(笑)

だいぶ人騒がせな孫でしたが、それでも喜んで異国でのオタク活動を支えてくれた祖父母には、感謝でいっぱいです。

 

この頃から、CDやDVDや雑誌なんかをおばあちゃんに購入してもらい、月1の国際便に詰めてもらう生活が始まりました。

これもまた大変で、横文字のシングルが伝わらない伝わらない!最終的に、「CD屋さんで嵐の最新のシングルって言えば伝わるから!!!」と言った覚えがあります。これは本当に酷い。こんな孫になっちゃダメだぞ、みんな!!!!

あと、おばあちゃんにどの雑誌まで頼めるかの判断も難しく、さすがに翔撃ananを買ってもらうことは思い留まりました。懐かしい(笑)

 

2009年②: オタ活開始

ブログやTwitterを開設したのもこの頃でした。

ほんっっっっっっっっっとうにやる事がなかったので、ずーーーーーーーーーーーーーっとPC前で画面に張り付いていた私。何をするにも某所で動画見たりラジオ聴いたり。(※余談ですが、ヨコヒナのレコメンが作業のお供でした。大変お世話になりました!)基本的に住まいはTwitter。時差の関係もあり、日本のお友達と会える時間は限られていたため、Twitterに現れる人に片っ端から絡み、おはようからおやすみまで見届ける異国のオタクと化していました(爆)

 

そんだけ時間があったので、日本で放送されている嵐のレギュラー番組の情報も基本的には網羅。某所以外でどうしたらリアルタイムで番組を観れるだろうか??と、あの手この手で情報収集をしていました。

最終的に、スウェーデンの日本人コミュニティーで日本から電波を飛ばしてもらっているご家庭を見つけ、"たまたま"嵐の番組がやっている日に遊びに行ってはテレビを見させていただいておりました。この頃から甘えられる厚意にはとことん甘えるという技を習得します。

 

こんな生活をしておりましたので、父も母も妹もみーーーんなオタク活動に巻き込まれるのは自明。家族団欒の時間は大体嵐の動画をテレビに映して見ておりました。

 

ネットに転がっている画像を片っ端から保存してはプリントアウトして、非公式ポスターを大量生産して自室の壁に貼りまくったり。学校でPCを使う授業の時も、こっそりPVを見ていたり。(この時に窓枠を小さくするとか、ウィンドウを画面から隠すとか小賢しい技も習得。)ピアノとギターで嵐の曲を弾いたり。何か買う時は『黄色』。

 

 

とにかく寝ても覚めても、嵐!嵐!嵐!!

 

 

時間があるって素晴らしいな、と今振り返っても思います。

 

そしてこの頃は家族だけではなくて、日本のお友達の皆さんにも大変助けられました。

 

ブログやTwitterがあったから私は孤立せずに充実したオタクライフを楽しめました。時差があってもTwitterがあれば、リアルタイムでドラマや映画を同時視聴することもできました。

 

(これ、めっちゃ楽しいんだよ!例えば日本時間で21時から「拝啓父上様の1話見ます!」ってなったら各々が一斉に再生して、Twitter上には「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!!ニノが襲われてる/////」みたいなツイートが並ぶの。叫び声が並ぶTL、思い返しても凄まじい光景w)

 

普段のやり取りだけではなく、物資の供給をしてくださった方々もいらっしゃいました。冷静に、顔も知らない素性も分からない遠い異国に住んでいる小娘に、わざわざコンサートグッズや雑誌を買って送ってくださるなんて。しかもご厚意で。昔から本当に人に恵まれていたなと思います。改めて、有難うございました。

 

2010年①: 帰国、そしてGANTZ事変

2010年夏、日本に帰ってきました。

ようやく現場に行ける、そう思った矢先に大事件が起こります。

 

スウェーデンを旅立つ前、日比谷野外音楽堂で行われるGANTZの野外イベントの応募がありました。webだったし応募するのは自由だと思い、駄目元で応募。当たるはずもないと思っておばあちゃんちに帰国すると、なんと、

 

 

GANTZのハガキがあるではないか!!!!!

 

 

心臓止まるかと思いました。やっとの思いで二宮さんに会える。生の二宮さん。どうしよう、死んでしまう、、、、、、、、はい、本当に体調が死んでしまいました(白目)

今でも原因は分かりません。ただ、スウェーデンの涼しい気候でゆとりライフを送っていた人間にとって、2年ぶりの日本の猛暑は字の如く猛毒だったのでしょう。。。高熱と腹痛で寝ているのでやっと。イベントまであと1週間というところで発症した原因不明の病状は、当日まで一向に治る兆しを見せませんでした。泣く泣くスウェーデン時代から仲良くしてくださっていた方にお譲りして、楽しんで来ていただきました。帰国後、初めましてをボロボロの病人スタイルで会うことになるなんて、これもまた想定外。

 

これを後に『GANTZ事変』と呼びます。

 

この大事件がトラウマとなって、この年の夏は軽く鬱になりました。その後も不安症とパニック障害に近い症状が続き、学校に通うのもやっとでした。(苦笑)

 

2010年②: 念願の初現場

GANTZ事変を経て、初めての現場は風景コン@国立でした!

 

これまたようやくFCを使えるぞ〜〜!と意気込んで申し込んだのですが、見事落選。「私は何のために帰国したんだ、、、、」と泣き暮れていたところ、女神様が手を差し伸べてくださいました。

 

しかし、この時期はGANTZ事変のトラウマで、猛暑の中を出歩くことは出来ない。電車に乗ろうものなら貧血で倒れる始末。グッズを買うどころか、せっかくのコンサートにも行けないのでは??トラウマにトラウマが重なるところでした。(あまりに参っていたので、姉に「代わりに国立にグッズを買いに行ってくれ」と泣きついたのを覚えてます。もちろん断られましたがw)

 

結局、必死の思いで国立に辿り着き初参戦を果たしました。国立の天空席で冷えピタを貼りながら(笑)

階段席を転げ落ちることがなくて良かったな〜〜、とこれもまた笑い話。皆さん、体調にはくれぐれもお気をつけて!

 

その時に見た景色は今でも鮮明に覚えています。国立の輪郭に浮かぶ新宿の摩天楼。後にそこから見えるビルで働くことになろうとは思いもしませんでした。

 

あと、大野さんのTake me farawayを双眼鏡でガン見した際に、ちょうど腰使いをガン見してしまい、子宮が疼いたのも今となっては良い思い出!(笑)

 

2011年: 国立と骨折

この年も懲りずに大事件を起こします。

 

美世界コンは高校の文化祭と日程が丸かぶり。しかも高校最後の文化祭でしたし、弊校は3年次の文化祭にもの凄く力を入れておりました。

が!しかし!それでも嵐に会いたい!これまた駄目元で応募してみよう!と応募したところ、見事初日に参戦できることになりました。

 

やったー!今年も会えるぞー!とお祭り騒ぎな反面、「さて、どうやって文化祭を休む?」母と会議を重ねた結果、母も共犯となって仮病を使うことにしました、、、、、

 

 

仮病って!!!!!!!(爆笑)

 

 

当時の私はこれが最善だと信じていたわけですが、見事にバチが当たります。

国立で嵐から元気を貰い、さも快復したように文化祭に登場した私。佳境に入りこのまま無事に文化祭も終わるかな〜〜と思われた夕方に、色々あって利き手首がポキッと!折れた〜〜!!!!

大学受験を控えた夏。嵐に会った次の日。利き手の右手首があらぬ方向に曲がったのです。

 

数ヶ月後には受験に向けて模試が始まるのに、鉛筆を持つことは叶わず。あゝ、このまま人生終わる、、、、、と思ったのも束の間、「このままでは嵐のせいで受験失敗したことになってしまう!そんなこと許されない!意地でも第一志望に受かってやる!!」と、左手で勉強したり、ペンのいらない暗記物をこなしたり、猛勉強しました。オタクの意地って凄い。

 

無事に第一志望に合格しましたが、今となっては国立に行って次の日に骨折をしていなければ、全く違う人生を過ごしていたんだろうなと思います(笑)

これぞ、不幸中の幸い!!!!

 

2012 - 2017年: 空白の6年間

そんな意地と根性で勝ち取った夢のキャンパスライフ!

バイトもしてお金も貯めて、さぁオタク活動もアクセル踏むぞ〜〜!

 

と、思いきや。学業にバイトにサークルに忙しない日々を過ごし、まともにレギュラー番組も見れず雑誌もチェックできない日々が続きます。ブログの更新もTwitterに顔を出すこともできず、辛うじて出来たのはコンサートの応募くらい。私の精一杯でした。

 

ただ、この日々があったからこそ、色んなオタクの在り方があってもいいなと思えました。人生色々、どんな風に推しと関わるかはその人次第。「ファンはこうあるべき!!」という定義なんてものはありません。もし今、ライフステージが変わってどんな風にオタクを続けるべきか悩んでいる人がいれば、自信を持って今やりたいことをやってみてください!推しを好きな気持ちが変わらなければ、どこかでまた必ず巡り会えます。

 

2017年: 17ARASICK再発

6年の時を経て、この世界に帰ってまいりました。

色んな必然が重なって重なって、またこの世界に帰ってくることができました。

 

人生の岐路に立たなかったら、周りにジャニオタが居なかったら、自分でお金を稼いでいなかったら、Twitterのアカウントが生きていなかったら、当時のお友達が私のことを覚えていてくれなかったら、大阪に遠征する勇気がなかったら、、、挙げ始めたらキリがありませんが、私は今こうして嵐の20周年を祝うことはなかったでしょう。間違いなく!

 

2019年: そして、今

沢山の一期一会が重なって、私は平成を嵐と過ごし終わることができます。嵐にとっても思い出深い時代であったように、私にとっても大事な時代になりました。こんなに色んな事件があったなんて、思い返してみないと分からないものだな〜〜(笑)

 

また、今日この日まで関わってくださった全ての皆さんに感謝すると共に、これからもまだまだ宜しくお願いします!

この先どんな風になっていくか分からないけれど、これからも私らしく嵐を追っかけたい。嵐を通じて出会えた皆さんと同じ時を過ごしていけたら、そんな楽しいことはないな、と思います。

 

 

嵐に出会えて良かった。

ありがとう、嵐!ありがとう、平成!

同じ時代を生きることができて幸せです。

 

 

以上!嵐と私の平成史、でした!

ありがとうございました〜〜!